社長通信 社長・瀬川文宏が気になること、考えさせられたことを綴ります。

2015年05月01日

自分の知識を疑ってみる

5月菖蒲

歴史小説上での人物像は、比較的考証の材料がそろっている幕末であっても、著者によって随分と評価が異なるものです。徳川慶喜の場合、「優柔不断で、鳥羽伏見の戦いにおいて自軍を残してこっそり大阪城を抜け出し、江戸に逃げ帰ってしまった腰ぬけ」という評価がある一方、日本国が幕府軍と官軍(岩倉具視が幼帝を利用して偽勅旨を作ったと言われているが)に分かれて内戦となり、「中国などアジアの国々が欧米列強に植民地にされたのと同じ足取りをたどることを危惧して、その後の江戸城無血開城にも応じたことは、国を憂う気持ちからの苦渋の決断だった」という見方もあり、評価が分れています。司馬遼太郎は前者、山岡荘八は後者の扱いですね。

私自身は、文武に秀で「徳川家康の再来」と言われながらも、将軍のお目付け役として代々将軍を出さない水戸藩主として、最後まで15代将軍になることを拒んだ慶喜のこと、相当な考えがあってのことだったと思います。明治に入って、移封された駿府で一切の政治と関わらず、趣味に生きた後年、「あの時はそうするしかなかった」と息子に言ったとか。「国を憂い、自ら手を引いた決断の人だった」との見方もうなずけるところです。明治維新以降、この国の歴史は勝者である当時の明治政府によって正当化され、徳川慶喜もその中で評価されたのではないかという思いが沸いてきます。

本能寺の変を起こした明智光秀は、歴史物語では闊達な信長や庶民に慕われた秀吉に比べて良いイメージでは扱われていませんが、本当にそうだったのか。本当に、織田信長に嫌われ、堪忍袋の緒が切れて謀反に及んだのか。失敗すれば一族郎党が根絶やしにされるくらいに酷い扱いを受けるリスクを冒してまで、私情に走ることができたのか。すでに、摂津国の荒木村重が信長に反旗を翻し、一族が虐殺されていたはずです。現代に例えれば、社長が私情にかられ、会社が潰れて社員やその家族が路頭に迷うようなことをするか、と問われれば、それはあり得ない行動です。「光秀が本能寺の変を起こしたのはもっと謀略があってのことだった」という意外なストーリーが、明智光秀の末裔である明智憲三郎氏が出版された「本能寺の変 431年目の真実」に、書簡などの証拠と共に記されています。為政者は都合の良いように歴史を書き換えるものです。豊臣秀吉が天下を取った後、秀吉に有利なように歴史を塗り替えたというのも、あながち末裔の身内びいきではないと思えます。

スペイン動乱で兵士が撃たれた瞬間を奇跡的にカメラに収めた「崩れ落ちる兵士」という著名な写真があります。撮影したのは写真ジャーナリストのロバート・キャパと思っていましたが、以前から真贋が問われていたらしいのです。沢木耕太郎はその著書「キャパの十字架」で、現地に取材をし、詳細な検証の結果、やはりあれはやらせか訓練時に偶然転びそうになったところを撮ったのであり、しかも撮ったのはライカを持っていた彼ではなく、同行していた彼のパートナーであるゲルダ・タローのローライフレックスである、と言っています。敵陣は斜面の下であり、あの角度では弾に当たらないこと。また弾が当たっても物理的にあのように後ろにのぞけることはないこと。写真には弾に当たった傷がないこと。何よりも、その頃は戦闘が行われていなかったこと。同じ一連の43枚のネガには同じ人物が他の兵士と談笑している姿が映っていたことなどから、本当に兵士が撃たれた瞬間を収めた写真ではないというのが通説になっているようです。

例に挙げた徳川慶喜の大阪城脱出、明智光秀の本能寺の変の真実はどうだったのか、果たしてキャパの写真の真贋はどうなのか。それらを考えることで、今まで教えられてきたことや、映画や小説で思い込こんできたことは、ある主張を持って創作されていると認識することが重要だと教えられます。しかしながら、物心ついてから今まで、教科書やTVなど色々な媒体を通じて堆積してきた知識を疑いだすと、自分自身を否定しないといけなくなるというややこしいことにもなってしまいますが、新たな事実の発見に出会うという楽しさでもあります。既成事実に対して思い込みを捨てて本当の事実を探すこと、一方的な情報に対して複眼的に検証することの大切さを教えられます。


2015年5月

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